読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

gloomyfioreのブログ

フィクションです

大人について

 

 

教師が大嫌いだった。大人が大嫌いだった。頼れる大人なんてなんにも魅力的ではなかった。朝の電車が嫌いだった。制服も校則も、私を意味無く不自由にさせるものはなんでもきらいだった。理解できない事がもどかしかった。分かりもせず知ったような口を聞く大人にはもっとうんざりした。要するに、一般的に呼ぶ「大人」という存在に、いつも絶望させられていた。

 

愛されていないわけではない。両親共からそれなりに愛されて育ち、教師にだって冷たい目を向けられた事は無い。私だって両親の事は好きだし、教師共の人間性自体が嫌いなわけではない。だからこそ、さみしい。どうせなら、極端でいたかった。

 

かつて私を産んだ彼女が、私の事をなんにもわかっていないことが悲しくてたまらなかった。そんな事はとうの昔に分かっていたのに、母親も私の嫌いな種類の「大人」だということを感じる度にこの上ない寂しさを未だに覚えてしまう。愛されているが理解できない、その矛盾を受け入れるにはまだ少し幼いのかも知れない。

 

中高6年間通い続けた同じ場所に、思い残すことはあるのだろうか。数式や化学式や綺麗事みたいなガラクタばかりで、大事な事は何一つ教えて貰っていないような気がする。学校が大事だなんていう大人は全く信用できない。ましてや仲間意識を強要して来る奴は吐き気がする。みんな同じ服を着た、自分1人が居なくても対して困らないような集団で馴れ合う方法よりももっと大事な事が沢山あると、どうして大人は言ってくれないのか。嫌いな人とも仲良くしましょう、なんて綺麗事なのよと、謙虚かつ大胆に、暴力的に生きるのが最もラブリーでゴキゲンなのよと、なぜ教えてくれないのだろう。私が高校生活で一番欲しかったのは、茶髪でもピアスの穴でも大量の化粧品でも恋人でもお金でも、セックスや酒や煙草の経験でも偏差値でも教科書でも無く、一緒に悪足搔きをしてくれる大人だった。大人とかいう存在に、一緒に絶望してくれる大人が、欲しかった。

 

私はそれでも勉強するだろう。ターゲット1900は繰り返し覚えるだろうし、ネクストステージはこの先チェックだらけだろうし、セミナーも繰り返し解くだろう。チャートもやらなければいけない。結局は真面目なのだ。遅刻もするし茶髪だし、ピアスだって何回も開けた(今は黒髪だし、全て閉じている)。化粧もしている。でも私は真面目だ。周りに悪足搔きをしてくれる大人はいない。理解者は自分しかいない。今はそれでいいのだ。

 

いつか、溶かす誰かが現れるまでは。賢く不真面目になれるように、そして私自身が悪足搔きを出来る、大人にちょっぴり絶望した大人になれるように、私は私なりの真面目を貫こうと思う。

 

今日は泣き疲れたので寝ようと思う。それでは、どうかお元気で。

 

 

4/18 夜

 

新年度を迎えたにも関わらず、相変わらず遅刻ばかりしている私。面白おかしく話すことだけは得意な私。すぐに勘違いして人を非難することをやめられない私。滅茶苦茶に口が悪い私。外見ばかり気にしてしまう私。愛されないと嘆く私。愛したいとほざく彼。愛されたがりの彼女。

 

人間というのは多面的で、誰しもが必ずいろいろな顔を持っている。いろいろな考えを持っている。だからこそ、他人を深く理解するにあたりその人間をいろいろな面で客観的に、ときに主観的に観察することは必要不可欠なのだ。私は物事を自己中心的に考える人間をひどく嫌っていた。

 

「見方次第だ。物事は多面的だ、貴様は底意ばかりクローズアップしている。よく見ろ、気付け 選び放題だ!!どう視る?」

私はこのセリフが大好きだった。そんなことも忘れていた。自己中心的に考え、底意ばかりクローズアップしていたのは、ほんとうは、自分なのかもしれない。けれどそのことにも気付いていなかった私はどうすればいいのか最早わからない。少しばかり疲れた。気付きたい。気付いてはいけないのかもしれない。結局は私は愛されたがりで、自分を悲観的に考えることで慰めているのかもしれない。さみしい。外ヅラにばかり固執している私はもうからっぽなのだ。もういやだ。傷付かないために、常に最悪の状況を前提として物事を捉えていた癖は今更抜けやしないのだろうか。悲しい人間になってしまったものだ。最早収集の術すら見つからない。今夜はもうおしまいだ

4/6 深夜

 

 

愛とは儚いものである。世界が愛に溢れていることは事実だというのに、愛だけではどうにもならないことばかりである。

 

 

言葉とは脆いものである。いざという時には役に立たないものだ。わたしにとって、本当の感情は、言葉なんかでは表すことができないぐるぐる巻きの毛糸のようなもので、それを言葉にしようと解いてみても、どうしても齟齬が発生してしまう。そして素晴らしいほど純粋な私は、その解いた綺麗な感情を本当の感情だと書き換えてしまうのだ。残された曖昧な部分は私の隅においやられ、どんどん蓄積されていってしまう。時にそれはわたしを救い、時に苦しめる。私はそれが嫌いではない。

 

欲望とは罪なものである。満たされた人間がつまらない事はずっと昔から分かっていたことであるが、満たされない人間がいつまでたっても寂しいことも私は知っている。舐め合うために傷付けあうのも甘く官能的な響きであるが、結局は身体の傷も心の傷も、治すことができるのは自分自身であるということに気付いた私は、並大抵の17歳ではないかもしれない。泣きながらご飯だって食べちゃうぞ

3/30 深夜

たばこを吸った。はじめてのことである。私の周りは喫煙者ばかりなので、手に入れるのは至極簡単なことであった。まだ17歳の私がどうしてたばこなど吸っているのか、それは私にもよくわからない。好奇心か、はたまた寂しさなのか。

この2年間ほど私は形容しがたい虚無感に苛まれることが多々あった。たいてい夜で、初めのうちはどうしたら大丈夫になれるのか、ひたすらに思考し続けたのちに結局疲れ果てて眠りにおちていた。疲れ果てる境界線一歩手前のなんと絶望に満ち溢れたことか!そうして眠りにおちた朝は、素晴らしいほど清々しい。そう、すがすがしいほどに何も変わっていないのだ。「明けない夜はない」というパッセージは、大抵、いつか朝が来るという事実を希望的に見立てたものだ。暗い夜があったとしても、かならず光は差す。なんと生命力溢れた解釈であろうか。下らない。私は「明けない夜はない」という希望的観測に、絶望的心理しか抱けないのだ。どうして何も変わらないのに朝が来るのか。ずっとこのまま、ひとりぼっちで、答えのない問題に頭を悩ませ続け力尽きるほうが私にとってはよっぽど自由で、確かな幸せであるかもしれないのに。


どうしようもないことにどうしようもなく哀しくなり、全然大丈夫ではない状況下で笑顔になれるほど私は強くないのだ。茶化した態度で他人と接しているわたしは、一見して図太く鈍感であるように見られがちだが、ひどく繊細で、直ぐに傷付いてしまう。自分が作り上げた人物像なので仕方ないのだが、私がひどく繊細でいつもメソメソしているという事実に、母親でさえ気付いていないのだ。私には私を知る者がいない。もしかしたら、私ですら私を知らないのかもしれない。


こういった表面上の自分と本当の自分の行き違いにどうしようもない孤独を感じ、両方の私を愛してくれる人などいないのだろう、分かってくれる人はいないのだろう、という一抹の不安や絶望に、17歳の私は立ち向かう術を知らない。なぜなら私はもうどちらかの自分を捨てることなど出来ないのだ。この上ない生きにくさと歯痒さを抱えながら、今日もわたしは化粧をする。初めて飲んだたばこの銘柄は、キャスターの5㎜だった。