gloomyfioreのブログ

フィクションです

ブリラーメンの暴論

 

「あなたは考えれば考えるほど前にも後にも進めなくなる人だから、考えすぎては立ち止まってしまうだけよ」と、これは19歳の秋に胡散臭い雰囲気の占い師に言われた言葉である。

 

人間は自分のキャパシティを超える出来事に出会うと他人の言葉に縋りたくなるものだ。己の未来など自ら創り出していくものなのに、そう安くはない金を積んで当たり障りのない言葉を頼りにして未来を見てもらおうなど人間のなんと愚かで浅はかな行為だろう。しかし私は素性も知らぬ胡散臭い占い師に言われた当たり障りのない言葉を、なぜかふと思い出してしまうのだ。

 

いつまでもモラトリアムを拗らせ、自分が何者であるべきか、なんて答えの無い問いをアホみたいに考え続ける私に、「ハタチにもなる人間がいつまでもそんなこと言ってるのヤバイで」などとほざいてきた中高生時代の国語教師に悔しいながら共感せざるを得ないのだが、後にも先にも進めない私は考え続けるしか無いのである。否、考え続けているから八方塞がりなのだろうか。

 

 

多くの高校生にとって大学はもはや学問を修めるのが目的ではなく、社会と戦うために学歴という名の武器を備え付けるものに過ぎない。ましてや国家資格の取得を目的としたほぼ職業訓練校のような単科大学に通っている私にとって、それは容認すべきことであり、そしてまた個人としては容認し難いことでもある。その矛盾が時に私をほぼ暴力的とも言える思考に導いてしまうのだ。いつも何かに頭を悩ませ、危惧し、憤怒の念を覚え、焦燥感を抱き、悲観し、それが何に対してなのかはもっとも本人ですら分かってはいないのだが、結局は社会であり、環境であり、周囲であり、そして一番は自らに対してなのである。

 

かつての文豪の作品に救われ続けるのは、彼彼女らがいわゆる社会のズレに苦しんだものであるからだろう。完全に偏見であるが、物書きや芸術家は皆知識と教養のある社会不適合者だと思っている。だからこそ生み出せるものがあるのだろうし、そもそも人々は社会に適応できるように幼少期から「世の一般」を叩き込まれる洗脳のような教育を受けているだけであって、クリエイティブな人間はその「一般」を捨て切れるだけの“正常な異常さ”を持ち合わせているだけなのだ。

 

12月、年末の匂いが濃く漂う街中に、少し置いていかれそうな気分になったりする。コンタクトがないと世界すら見えないくせに1人で生きていける、なんてほざくバカと、この世の終わりみたいな顔をして電車に乗る人々が今日もどこかで生きているのだろう。